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2017年4月4日 ①

兄は大学卒業後、東京に移り住んだ。「荷物を減らしたいから」とその時沢山の本を貰った。その中にドストエフスキーの『罪と罰』があった。けれど今まで一度も最後まで読み通せたことがない。いつも途中で読むのを辞めてしまう。

しかし今回は読めそう。

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4日は良い天気だった。夜になるまですることもなかったので、平和公園の桜を見に行くことにした。
自転車で行くことにした。
自転車。
最近疎遠になっている自転車。
外れたチェーンを直すのが面倒で、1か月以上マンションの駐輪場に放置されている自転車。会社からの帰宅途中でチェーンが外れてしまって、歩いて押して帰ってきたあの日以来、駐輪場の奥へ奥へと沈み込んでいってしまっている自転車。些細なことで喧嘩して別れて、そのまま修復の機会を逃し続けているおれたち。

しかし、今日は好機だ。花見に行きたい気持ちがあるし、平和公園の近くにはガストしかないから覚王山あたりで昼飯を食べようとするならね、好都合だし。それにいまのこの気持ちの余裕 ー 早起きして家事を済ませてしまった2連休初日の、好天に恵まれたうららかな初春の正午にだけ顔を出す、負債のない、多くの義務から解放された、圧倒的な気持ちの余裕 ― を逃す手はない。これだけ自分に有利な条件が揃っているんだ。今日が復活の日だ。駐輪場の陰と対峙する時だ。


駐輪場の奥のほう、使われなくなって落ちぶれた自転車のたまり場。の一部になりかけているおれの自転車。もう一目で怒っているとわかる。「今更なんの用ですか。」立ち昇る禍々しい怒り…。恐る恐る近づいていって声をかける。返事は無い。こちらを見てさえくれない。最高強度の拗ねっぷりをここぞとばかりに発揮している。ひるむひるむ。でもこのまま帰るわけにはいかない。今日はちゃんと向き合うと決めてきたのだ。自分自身に勢いをつけて迫り、さっとしゃがみこんで躊躇なく患部を診る。おれは聞いてきたとおりに、要所である後輪部分に目をやった。チェーンの修理の命運は後輪部分にかかっている。そう、こんな日に備えて、もつれを解決に導くヒントを事前に入手していたのだ。それは自転車に詳しい上司が与えてくれていた。チェーンの修理において鍵を握るのは「後輪のフック」だ。「後輪」に「フック」があれば比較的簡単に修理できるらしい。おれは合格発表当日の受験生のように祈った。イケてる形をした後輪のフックが目にとびこんできた。

駐輪場の陰から自転車を取り出してきて、広くて暖かいところに優しく倒す。簡単に修復できそうだとわかった安堵感から、許しを請う言葉が口をついてぽろぽろとこぼれだす。「連絡も入れないでずっと放置していて、ごめん。」フックをぐいっと足で押し込んでチェーンをたゆませる。「どこに行くにも一緒だったお前なのに。」ギアの隙間にがっちり食い込んだ部分に指を入れ、ペダルを反対に回しながらその絡まりをほどいた。「お前がおれを必要としている時におれは逃げだした。」長い間放置されていたチェーンの緊張はようやく完全にとかれた。「お前がおれを必要としているときにおれはお前に向き合ってやれなかった。」あとは紐をかけるみたいに、指一本の力だけでペダルのギアの部分にチェーンをかけ直すことができた。駐輪場の陽だまりに暖かい春の風が吹いた。あとはしっかり嚙合わせることだ。「おれを許してくれるのか?」後輪が回転できるよう地面から浮かせ、ペダルを掴んでゆっくりと時計回りに回す。チェーンは少しずつ、ふたたびペダルのギアにしっかりと嚙み合った。連動して後輪のタイヤもぐるぐると回った。

その回転は、大人たちが忘れてしまった無邪気さであった。おれの自転車はサッパリとした性格だった。点検の意味もこめて自転車のサドルをグルグル回した。仲直りした子どもたちが手をつないでぶんぶん振り回すみたいに。「お花見に行きましょう。」

 

また、長期間の放置で、タイヤは空気を吐き出し切ってしまっていた。空気入れを部屋から持ってくる。「あの誰がやってもダサくみえる上下運動のある日なた」。後輪の空気入れの黒いキャップが無くなっていた。それでも問題なく空気は充填された。漏れる様子もなさそうだった。

 

 

さあ花見に出発、と乗ってこぎ出してみるとしかし、不意に新たな不具合が出現した。自転車を漕ぐリズムに合わせてどこかから擦れる音がする。自転車みたいな機関においてそういう摩擦って取り返しのつかない消耗につながる。どうしようかと思案しながらそのまま春岡をぐるっと一周して、セブンイレブンの前を過ぎてマクドナルドの交差点まで漕いでいく。それでもその音は無くならない。どうやら漕いでるうちに自然に直ったりしないタイプの不具合のようだ。というか直るどころか、チェーンがまた…これがなんでか、また外れそうにガチャガチャなってるんだよな。

 

あやうく自転車を睨みつけそうになる。

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「反省して優しくなった男としての一連性を保とうとしている。お前は変われないよ。小さいころから一度たりとも善であったことなどないじゃないか。自分勝手で、見栄っ張りで、意地の悪い、正しい知恵のない猿。心の奥底にぬぐいようのない悪意を飼っている。劣悪な人間性の持ち主め。お前は変われないよ。」

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 それでも心を持ち直す。消防士が放水するみたいに理性を噴出させる。 もう一度点検だ。きっとほんのわずかな不具合だ。放置していたのだからしょうがないよ。相手は日々のこまやかなメンテナンスを必要とする道具なんだ。もう一度マンションに戻ろう。

 

濃ゆいコーヒーみたいな肌の色をした2人組の黒人の前をUターンする。

 

マンションの前に止められた引っ越しのミニバンの脇を通ってもう一度、駐輪場の陰と陽の境目に自転車を倒す。そして擦れる音の原因を探る。(こうやっていろいろな部位を良くよく見てみると、ところどころ剥げたり欠けたりしている。購入したのは名古屋に転勤してきた初年度の5月頃だったろうか?もう30か月以上も前の話だ。その間いろいろなところで倒したりぶつけたりしてきたわけだ。)いろいろな部位を触ってみる。初めて触れる部位が初めてのファンクションを見せる。形の悪い明太子みたいにブリっとした部位が蟹の鋏みたいな動き方を見せる。


音の原因は後輪のブレーキだった。ブレーキの右のゴムが後輪に少しだけ触れていたのだ。どこかのネジが緩んでいるせいか?問題を解決に導くたった一つの締めるべきネジを探した。しかしそんなものは無かった。原因はもっと単純で、おそらく倒れたかなにかした拍子にタイヤの軸が歪んでしまったのだ。軸が歪んで、ブレーキのゴムに接触してしまっている。となると必要なのは力を込めて歪みを矯正することだ。倒した自転車の後輪を慎重に踏み、ゆっくりと力をのせていく。そうしてブレーキ・タイヤ間に適切な隙間を取り戻した。

それで解決した。擦れる音は無くなった。不思議とチェーンももうそれ以降は外れるそぶりを見せなくなった。なんとか走れるまで修復できた。しかしまだ一抹の不安は残る。完全な信頼には若干の距離がある。裏切った自分への当然の見返りだ。これから何が起きるかわからないぞ。たとえば下り坂の途中で前輪が外れるとか。大怪我だ。ブレーキが壊れて通行人を轢いてしまうとか。それが老人や小さな子どもだったら取り返しのつかないことになる。とにかくゆっくり漕いで行こう。そう考えながら平和公園を目指して、広小路通りを東に進んだ。

 

おなかすいた。

時刻は13時前。 

公園に行く前に覚王山で昼食にしよう。